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Traduction de la présentation en japonais  
(remerciements à Ryohei KAGEURA)  
ルソー哲学  
ナニヌ・シャルボネル  
 
ジャン‐ジャック・ルソーの作品の新たなる読解  
ルソーの後に、私たちから彼をいかに追い払うか? これまでにないやり方で彼を読みながら。近代を創設した哲学的な仕事は根本的に非論理的な――そして自身がこの上なく論理的であることを欲している――形式で構成されている。良きにつけ(不正に対する戦い、実在する個人の称揚、著者の人物としての強力な魅力)、しかしまた悪しきにつけ(擬似‐科学、同胞と本質的に関係しないものとしての人間の最初の定義、ナショナルな、性的な実体の物象化、普遍化された自然主義)、ルソーは、対立する過激主義のアバンギャルドたちを潤わせた場所を生み出す。文学史と同じく形而上学の歴史において彼を理解すること、彼をキリスト教の形式を用いる新たなる「宗教」の創設者として理解すること――よりよく彼の立場につくために――、これらのことはこの野心的な三著作に賭けられているものである。  
 
ブリリアントな文体で、ナニヌ・シャルボネルの著作はルソーとしかしまた形而上学の歴史の新たなる読解を、そしてキリスト教についての、文学と政治についての大胆なテーゼを提示する。  
 
語りかけるような表紙  
表紙は1889年のゴーギャンの有名な絵である「黄色のキリストの肖像画」を転載している。それは本の二ページ目からすぐに問題になることなのだが、それは多少、ルソーが開いた近代の類型の象徴であるからだ。  
深淵におかれていることが普遍化した肖像画の極み(実際にこの絵の中には三重の肖像画がある:中央のゴーギャンの顔に加えて、キリストの顔は彼にとても似ており、そして右側の作品については土製の壺が主題となっているが、それは彼の手紙から知られているように、ゴーギャンが自分に似せて作ったものである)  
芸術作品化による救済:ゴーギャンは彼の二つの作品の前で自分を描いている。それは(ブルトンのキリストの受難像に従って)すでに描かれた絵とすでに作られた壺であるが、それらはそれ自身絵になっている彼の顔に寄り添っている。  
キリストとの関係:それは伝統的に彼の守護の下におかれることから新たに「彼の立場におかれること」へと揺れ動くのだが、それはルソーが開いた関係の類型であり、それはこの本のテーゼのひとつである。  
ゴーギャンを終わりにするために次のことを付け加えなければならない。彼は異なる妻たち二人からの息子たちのうち二人を「エミール」と名づけた世界でただ一人の人間である。二十歳年上のほうは完全に存命中であるにもかかわらず、二人目はその同じ名前を受け取ることとなったのであった・・・ このことは「原始的な」生の画家が欲した新たなる守護を如実に物語っている。  
私たちはこれらのさまざまな軸を三巻からなる『ルソー哲学』において見出す。  
 
本義と転義、現実と文学、文学と哲学の不可能な区別  
第一巻「天才はいかに借金を返すか」は、ルソーが整理する、言語と現実の新たなる関係を提示する。タイトルはバルザックについてのボードレールの表現からとっている。ボードレールは(『ロマン主義の芸術』に転載された1846年の論文において)バルザックが「借金を返す」やりかたに言及している。それは他人に記事を書かせてお金を受け取る、というものである。ルソーにあてはまり得るのは間違いなくこの面ではなく(剽窃の問いは彼にとって重要ではあるが)、ボードレールの論文の末尾である。「偉大な詩人は最も不可思議で最も陰謀が巡らされた小説と同様にたやすく為替手形を解決できることを私は示したかったのだ」。  
為替はいずれにしてもルソーの作品を操る鍵となるカテゴリーである。唯一ポール・ド・マン(デリダの師)だけが正当に、ルソーにおいては文学作品とその他の哲学的、政治的、教育的作品を区別することはできないと断言した。しかしそのテーゼが正しいのであれば、ド・マンが援用した論証は間違っている、ナニヌ・シャルボネルは記号、文彩、様式の思想の詳細に分け入りながらそのことを提示し、同時に、ド・マンとデリダが本義(propre)と転義を識別することの不可能性を支持できるとすれば、反対にルソーの主張に盲目に従っていることになる、ということを証明する。  
したがってこの第一巻は(良かれ悪しかれ近代に、文学的創造性に、そして哲学的な誤りに奉仕するであろう)記号とテキストの新たなる思想の生成におけるルソーの重要性を理解させてくれるし、そしてまたルソーにおいて文学と思想、虚構と現実、虚偽と真実を区別できないことの実質的な基礎を初めて確立する。  
 
キリスト教との新たなる関係  
 第二巻「彼の立場で。キリスト教の廃位」では、最初の二章がルソーの作品が遂行するこの大激動の内容を深める。この二章は作品の詳細において何がルソーの操る材料となるのかを証明する。『新エロイーズ』や『エミール』(第一章)といった「文学」や『社会契約』(第二章)でそうであるように、登場人物たちや諸概念は実際同じ次元にある。  
 ここでナニヌ・シャルボネルのテーゼはまったく新しいものである。彼女は彼女がすでに隠喩についての以前の仕事において「本義を不適切にとること(mise-indue-au-propre)」と名づけたものがいかに問題になっているかを示す。それはつまり、隠喩、撞着語法、提喩、誇張法といった大きなメカニズムを、それらの通常の機能を狂わせ、それらをもはや「レトリック」のしかたで(つまり「かのようにする(faire-comme-si)」というように)用いないやり方で、擬似‐論理的なやり方で用いることである。もはや「かのように」しないことになると、異質な諸実体が一致するようになり(隠喩)、または二つの正反対の現実が一致するようになり(撞着語法)、また個と属が一致するようになり(提喩)、また現実とその超過が一致するようになるのである(誇張法)。一致のためにそれらを現実として、本義としてとるのである。  
 このとき私たちはこの構成的逸脱のためにあらゆることが近代に開かれていることを理解する。最上のものである新たなる創造性も、最悪のものである擬似‐科学の新たなる宗教も、発話がなされる意味規則のこの誤りに基づいているのである。  
しかしナニヌ・シャルボネルの思想は過去への回帰を提案するのではまったくない。彼女のテーゼはこの第二巻の第三、四、五章において頂点に達するのだが、そこで彼女は読者が次のことを理解するために問題のあらゆる要素を提示する。以上のようにルソーが遂行した思想の揺り動かしはすでにキリスト教の神学を生成するメカニズムであったのだ。  
 このようにして次のことが同時に提示される:  
ルソー(人物と堅く絡まりあった思想)がキリストの「立場におかれる」やりかたを、「立場におかれる」のあらゆる意味において、すなわち相続と入れ替え、模倣と破壊、拒絶と転移において根本的に理解すること  
そして現在時に相当しないキリスト教理論はこの宗教の哲学的アプローチをまったく更新し、一神教の中でその特異性を構成するものの真の脱構築を構成する。  
 
論理‐非論理  
 第三巻「自然的なものの論理」ではルソーの作品における「論理‐非論理」が明らかになる。  
 全三巻全体において、そしてイントロダクションからすぐに、ルソーにおいては「論理‐非論理」が存在するというテーゼが主張されている。ルソーの思想を彼がそうであるように望んでいるように取り組むこと、そこに矛盾を見ずに、しかし困惑させたり苛立たせたりするものを脇におくことなく取り組むことが重要である。それゆえ、真に構造的な研究にこそ専心しなければならないのであり、その結果はこの最終巻の分量のある第一章で与えられる。この章の題名は「善悪の存在‐論理(Onto-logique)」である。この銘句は、ヴェニスの高級娼婦であるツリエッタが言った有名な言葉であり、ジャン‐ジャックが彼女に彼女のふたつの乳房の形が同じではないことについて、とても場違いなコメントをしたときのものだ。「彼女は数学の勉強をしている」・・・  
 ルソーの思想は「一」と「二」に完全に支配されていることが示されたわけだが、それには構造的な価値があるだけでなく、人間学的な意味もある。ルソーのあらゆる仕事は他者との関係の問いに支配されているのだ。さらに彼はこの問いを、一方で唯一‐完全‐「自己に固有(propre à soi)」と、他方で二重‐不完全‐場違い‐他者による覆い隠しとの二者択一の状況であるとみなす。善である一と悪である二、これがルソーの問題提起をところどころで構造化する二者択一である。このとき問題としてのであろうと解決としてのであろうとルソーのさまざまな発話を理解できなければならない。この解決とは「二」とともに「一」を作り直すさまざまな可能性を広げることである。  
 この第三巻の最後の二章はふたたび挑発的なテーゼを提示する。自然なものという概念はルソーにおいては完全に他者との関係にアンチテーゼを唱えるために生み出された、というものである。ルソーは本質的に他者と関係しない「自己に固有」であるものを「自然的」と名づけたのであった。  
 ここに、聖なるものの転移による「世俗化」の最も見事なケースがある。それは人間がそのようにしてキリスト教の「彼の種の唯一神」の立場をとる、という新しい定義である。しかしさらに、自然なもののルソーの思想に見つけ出すものは、本義と転義の強く混ざり合った同じ属性(神学の歴史の正確な読解が構築した属性)である。  
 このように「原義を不適切にとること」の極みはまた「自己に固有であること」の極みであるのだ。  
 
 それはこれまでにないやりかたで解き明かされたルソー解釈であるだけでなく、また近代の再解釈でもある。  
 重要な一般的結論はこの再解釈のための指針を提示する。  
 
 
 
ナニヌ・シャルボネルは1981年から1991年までジュネーブ大学で教鞭をとり、1991年以降はマルク・ブロック大学、すなわちストラスブール第二大学の哲学科の教授である。彼女は哲学の教授資格をもち、そして文学博士の資格を保持している。  
 
著者の研究と以前の成果との関連:  
ナニヌ・シャルボネルは三部作である『盲目の使命』において近代の再解釈を開いた。彼女はそこで隠喩の一連の理論を哲学的議論の中心に再び置くことを試み(『隠喩の冒険』)、そして近代を人間行動学的な次元の(つまり行動のための指針の)忘却と、自然な類型の人間モデルの思想の下降として考えるための新しい道具を生み出すことを試みた(『モデルの哲学』)。  
 したがって彼女は新しいやり方で近代の問いを再び取り上げる。彼女は形而上学の歴史を模倣と類似に与えられた取り扱いに照らし合わせて再解釈し、そしてこの取り扱いを思考の形の「意味論的規則」と関係づける。彼女はこの研究領域を「超越論的修辞学」と名づけることを提案する。それはカントの精神で理性と思考における「かのようにする」の取り扱いの困難さとの弁証法を補完するものである。固有の概念は彼女の再解釈の中心にあり、彼女は「原義を不適切にとる」という概念を生み出すことを提案している。  
 
出版:  
書籍:  
  1987. 『教育の不可能な思想。ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」について』、Cousset (Fribourg, Suisse):  
1988. 『教育的理性批判のために』、Berne : Peter Lang, 193 pages  
1991. 『盲目の使命』、Ⅰ:「隠喩の冒険」、Presses universitaires de Strasbourg, 310 pages  
1991. 『盲目の使命』、Ⅱ:「重要なのは固有であることである」、Presses universitaires de Strasbourg, 280 pages  
1993. 『盲目の使命』、Ⅲ:「モデルの哲学」、Presses universitaires de Strasbourg, 246 pages  
編著:  
1997. 『声の贈与』、Berne : Peter Lang, 161 pages  
1999. (Georges Kleiberと共編)『哲学と修辞学の間の隠喩』、Paris : Presses Universitaires de France, 245 pages  

 

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Modifié en dernier lieu le 7.12.2008